左脳は右脳の夢をみる

24歳で脳出血を起こしても、この世界で誰かを守るために生きる1人の軌跡。

失われた「多様性」を求めて

昨晩、下記の記事を読んでいて考えたことがあるー「Webライティングにおいて【多様性】を求めることは難しいのではないか?」

toyokeizai.net

ざっと上記の記事を要約すると、

  • 今年の2月、大学生協が発表した報告書によると、大学生の53.1%が1日の読書時間について「ゼロ」だと回答した
  • 読書は視野を広げ、自己形成に良い影響を与えるだけではなく、「思考力」や「寛容さ」を鍛える
  • 読書をしよう!

つまり、「読書の良さだけを主張している文章」に読めてしまうのです。

 

事実としてここに書きますが、私は学生時代片道3時間の通学中、少なくとも電車に乗っている2時間の間は読書に勤しんでいました。時に島崎藤村の『破戒』を。時に僅少本であるため、神保町を練り歩いてやっと見つけた『新・映画理論集成1』を…4年間の学生生活で読んだ本の冊数は記録していないけれど、上記の報告書に倣って時間で換算すると―1日の読書時間は少なくとも「240分」だったことになります。

一方で読書時間が多いから私の人生は豊かなのか、というと上記の文章で主張されている(と感じた)結論とは逆に私の場合は本を読めば読むほど自分の世界に閉じこもり、狭い視野で生きていた気がします。

だからこそ、ひねくれた心を治すのに時間がかかり、休職をさせていただくことになってしまったのだと思います。

creacreative-megumi.hatenablog.com

 

一方で私の視野を広げ、生きにくさを軽減させてくれたのは「読書体験」がベースにあったことは確かですが、大部分は会社の先輩方や同僚、そして仕事を通して出会えたクリエイターの方々の【生きた言葉】―つまり「人間関係」にあったと思います。

しかし、この私論を上記の文章に盛り込んで読書だけではなく、人とのコミュニケーションの良さにまで言及すれば、主張したい内容が曖昧になってSEOを考慮したタイトルもつけづらいし、冗長な文章になってしまうことで離脱率も高くなるでしょう。プルースト『失われた時を求めて』を完読できなかった私のように。

つまり、メディアにおいて【多くの人に最後まで読まれる≠多様性がある文章】というのが今回の私の持論。

だから、「多くの人に最後まで読まれる文章」が「良い文章」とされているWebライティングの世界においてメディアの中の一本の記事で【多様性のある文章】を追求することは難題なのかもしれない…と考えたのです。

しかし、心だけではなく、左手脚までひねくれた今だからこそはみ出しモノにも届く、多様性のある文章をこれから書いていきたいSEOを考えつつ、これを実現させるためにはどうすれば良いのでしょうか?

―はたまた、努力以前に無理難題なのでしょうか?

いや、ここで諦めたら私が言葉を書く意味がなくなってしまう。先輩でも、本でもネットでも…片っ端から頼ればいい。

幸運なことに、私には考える脳機能も時間もあるから。