ひねくれWeb編集者がゆく!

心がひねくれて休職を2度しても脳出血で左手脚がひねくれても諦めないWeb編集者の物語

はみ出しモノは正直モノであれ

今回は少しだけ情けない社会人1年目の話を交えて。

社会人1年目の時ー私は「多量の請求書を三つ折りにする」「多量の請求書とその控えを分別する」というごく簡単な仕事すら満足にできませんでした。

なぜか?ー頭の中で先輩の指示をまとめることが難しく、半ば混乱状態で仕事を続けている状態だったから。

そんな私を根気強く指導していた上司を困らせ果てた先にかけられた言葉がありますー「これは幼稚園児でもできることだよ?」

その方は本当に仕事に対して真っ直ぐな方で、社会人としての私の恩人でもあります。今でも心配そうに語りかけるその方の表情をまざまざと思い出せる程にこの言葉は今でも忘れられません。

その言葉の鋭利さ故にではなく、「はみ出しモノ」である事実を初めて強く認識した瞬間だったから。

続きを読む

♩=118

午前8時30分頃ー改札からどっと流れ出る人の列の合間を抜けて歩く。

数日前から私は院内を歩く前に医療スタッフの足元を観察するようになりましたーイヤホンから聴こえるメトロノームのテンポを合わせながら。

入院当初から担当理学療法士のエノモトさんと「退院までに通勤ラッシュを経験しよう」と話していたのですが、ついに昨日、私は「千葉県の通勤ラッシュ」を経験しました。

私は空間把握能力のある右脳に脳出血を起こしたため、日常生活にはほぼ支障がない程度ではあるものの、物や人との距離感を把握することが苦手になっていますーつまり、大勢の人を避けながら歩くことが苦手。

そこで、私は昨日までこの課題を乗り越える方法として「メトロノームアプリのテンポに合わせて歩く」という自主トレを行なっていました。

つまりー院内のスタッフ(特に看護師)は日々患者の対応に追われているため、歩行スピードが通勤ラッシュの社会人に近いのではないか…という仮説を立て、彼らの足元を見ながら平均的なメトロノームのテンポを探っていたのでした。

そこで行き着いた答えは「♩=118〜120」。

通勤ラッシュの波を掻き分けて歩くために必要なテンポがこれ。自分と他人との距離が把握しづらかろうとも、こちらがこの平均テンポを崩すことなく歩けば大抵の場合、相手も避けてくれるだろうし、ぶつかってしまってもその時はお互い様だろうー。

 

8時過ぎー掴まる場所もないため、ただ約20分間、揺れに耐える。そして乗り換え練習のため、無駄に途中駅で乗り換えをする。

電車間を通る人と向かいの電車から降りてくる人の間をすり抜けて乗り換える。

心の中でメトロノームの無機質な音は響いていなかった。でも、ただ「会社に行きたい」という思いが♩=118のテンポで私の脚を動かしていたような気がしました。

 

退院後、もし会社に歩いて向かう日が来たなら私はどれくらいのテンポで歩いているのでしょうかーせめて初日は嬉しさが勢いになり、♩=120ぐらいはあると嬉しい。

ひねくれ「努力論」

20時30分―病室中央にあるリハビリルームにあるベッドに寝っ転がり、歩行器の金具に反射して天井に映る光をぼんやりと眺めていました。

歩行リズムを一定に保つために聞いていた、メトロノームの音がイヤホンをした耳から濁流のように流れ落ちていく…

―「私は何のために歩いているんだ?」

 

creacreative-megumi.hatenablog.com

 

仕事が楽しいから、仕事を通して人と出会えることが楽しいから…それらを自分が踏ん張って手に入れたものだからーそしてそれらを取り戻すため。

言葉にするのは簡単だけれども、結実の様子が想像しにくい努力ほど苦しく、難しいのかもしれません。

幸田露伴の『努力論』序文にもあるように。

努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。(『努力論』幸田露伴

 

学生時代に「序文だけ読んで」、その難解さに放り投げた『努力論』ーあれから数年経った今、先人の言葉を痛感することになろうとは思いもしませんでした。

つまり「間接の努力」が欠けやすい原因は「努力の結実への道のりの長さ」にあるのではないかーと永遠に続くような、メトロノームの音に溺れかけながら考えていたのでした。

いや、道のりの長さを分かっていたから今まで頑張ってこれたのでは?ー 

creacreative-megumi.hatenablog.com

 

思えば私は「13,000歩」という【ただの数字】だけを【目標】と誤認していたのかもしれません。

また、最近の私は左手脚のリハビリと自主練は合計して5時間30分になるように予定を組んでいました―きっとこれも【ただの数字】。

 

「努力の結実への道のりの長さ」を「間接の努力」を成して乗り越えるためには、私の場合、数字目標に「模擬体験」を関連付ける必要があるのかもしれません。

例えばー文字起こし。1時間の音声を3時間以内に文字起こしできていたのなら、その模擬体験(実際に取材をして文字起こしをする)を時間内に行えるようにするー。

 

そもそも私の目に見えている標(しるし)は数字ではありませんでしたー仕事をしている過去の自分の視点を通した記憶。

この「狭い世界」にいると、どうしても目の前の数字を追いかけたくなるでも、それは私が見ている世界ではありませんでしたー。

つまり、努力の方向が間違っていれば「間接の努力」に疑問を抱くようになるようです―「私は何のために歩いているんだ?」と。

 

幸田露伴は序文の後どのような文を続けたのでしょうか?思わず答え合わせをしてみたくなりました。

「夜の思い」は言葉のかたち

消灯の21時を過ぎても私はこっそりと机に向かっている―リズミカルとはいえない、タイピング音を響かせて。

左脚の方は先日杖が外れ、装具のみになったので、血豆をつくりながら1日1万歩を達成すべく、歩き続けています。

 

 

creacreative-megumi.hatenablog.com

 一方の左手は筋トレとタイピング練習が主なメニューで、タイピングには病院に毎朝届く『読売新聞』の「編集手帳」(460字)を13分以内を目標に打ち直しています。

麻痺のある左手指で押すキーを決めて打ち込んでいるため、どうしても時間はかかりますが、私の仕事はこれができなくては何も世に伝えることができないので、根気強く、毎日欠かさず続けています。左脚の血豆やひざの痛みに苦しまされても、指は動くから。

 

そして昨晩―「編集手帳」を打ち込んでいる私は動き続けるタイマーの存在を忘れて顔も名前も分からない筆者の言葉に心を奪われました。

 

長くなりますが、筆者に敬意を表してここに全文を引用します。

続きを読む

おもひで1万歩街道

iPhoneでは「ヘルスケア」というアプリが常時表示されている。その中に過去に自分が歩いた【歩数】が記録されていることを最近知った。

 

脳出血で左手脚がひねくれる直前の2月の記録を見ると、1日の平均歩数は8,163歩。仕事で取材がある日は1万歩を超えていますーしかし、過去の歩数を見た5月18日当初、私の歩数はその半分にも満たない、3,451歩…焦燥感の渦中でエクセルを開いた私は【歩数管理表】なるものを作成することにしました。

私が歩く理由は【仕事に戻るため】・【幸福に暮らすため】ーそのために歩くべき歩数を可視化することがリハビリから復職、社会復帰への最短距離を見出す必要な手順であると考えたからです。

 

ーそして、5月23日を境に1日の歩数は1万歩を超え、本日は14,880歩(距離にして7.9km)でした。

ここで私のリハビリについて補足すると、1日に先生の指導を受けて歩行するのは約2kmなので、あとの3/4はリハビリの合間にひたすら院内を歩いています(もちろん、左手の自主練も忘れずに)。

 

「ひたすら歩く」と言っても目の前に広がるのは見慣れた院内の風景で、少々楽しみに欠けますー歩行の目的が【歩くこと=歩数】になった途端、それは無味乾燥なものになってしまうー「だったら歩数を思い出や将来行きたい場所と結び付けて、そこを目指して歩こう」ー10,000歩…昭和記念公園にある大木の下にたどり着いた時はあともう少し歩いていたかもしれない、あと少し…消灯時間の10分前まで歩けばきっとあの大木が見えるかもしれない。少し前には料理に慣れない私が作ったお弁当を持つ「恋人」という名の「親友」の姿があるはず。

ー13,000歩…大木の向こうに見えるのは部署の先輩方?そのさらに先には取材企画を立てていたあの方かもしれない。

 

私にとって【歩くこと】ーつまり1日1万歩以上という目標の【数字】は【思い出】や【未来】を想起させるきっかけに過ぎません。

 

生後(術後)16日目の4月4日から本格的に始まったリハビリ。当初の私は何処にも行けない左脚を見つめながら数歩進むだけで精一杯でした。

そして手術を受け、生まれ変わってから2ヶ月と少しー生後2ヶ月の私はやっと24歳の私が歩いていた街道を思い出と、そして将来の目標と共に再び歩き出したのかもしれません。

正義のギセイ

 どうやら、私は真面目になればなるほど、自分が苦悩して出した解を【正義】と決めつけてしまうらしい。

creacreative-megumi.hatenablog.com

先日の『読売新聞』でも京大の立て看板撤去、という【正義】の解を巡る騒動について以下の様に書かれていました。

京大のキャンパスの外周、学生らが公道に立てかけた数々の看板は条例違反だと、大学が撤去に乗り出した。「立て看板は京大の文化。自由な学風はどうなる」。学生が反発し、騒動になっている。

双方、たかがタテカン、されどタテカンなのだろう。

『読売新聞』(2018年5月14日朝刊)

つまり、【正義】は一つであるとは限らない―神なき日本人なら猶のこと【正義】の所在を求め、傷つけ合うのかもしれません。

続きを読む

月と六ペンス

イギリスの小説家サマセット・モームの代表作『月と六ペンス』を手に取ったのは大学2年生の始めー岩波文庫から出ていた夏目漱石の著書を大方読み終え「海外文学にも手をつけてみよう」と思っていた頃―題名に惹かれて出会った一冊。月は「夢」を六ペンスは「現実」を現しているらしい。

続きを読む

失われた「多様性」を求めて

昨晩、下記の記事を読んでいて考えたことがあるー「Webライティングにおいて【多様性】を求めることは難しいのではないか?」

toyokeizai.net

ざっと上記の記事を要約すると、

  • 今年の2月、大学生協が発表した報告書によると、大学生の53.1%が1日の読書時間について「ゼロ」だと回答した
  • 読書は視野を広げ、自己形成に良い影響を与えるだけではなく、「思考力」や「寛容さ」を鍛える
  • 読書をしよう!

つまり、「読書の良さだけを主張している文章」に読めてしまうのです。

続きを読む