左脳は右脳の夢をみる

24歳で脳出血を起こしても、この世界で誰かを守るために生きる1人の軌跡。

優生思想と病について

ALS患者が安楽死を望み、その手助けをした医師について「優生思想」の持ち主であると書かれている記事を読んで、数年ぶりにブログの編集画面を立ち上げている。

 

私は2017年に24歳で脳出血を起こし、今でも左上下肢に軽微な麻痺がある。

 

そんな状況の私からすると、優生思想は何も特別なことではなく、かつて在籍していた企業では日々自分の存在意義のなさを感じ、体調不良を無視して働き、復職後も2度救急搬送されている。自殺の準備までするようになった頃、私は自殺方法について検索している中で「優生思想」を知ることになった。

 

感覚的ではあったけれど、自分が身を置いていた社会環境を映した言葉と概念だと思った。

 

超資本主義社会の中で生産性の向上と利益の向上を目指す人々は恐らく、何の悪意もなく「生産性の低い人間は不要」だと考えているのではないだろうか?

 

私もかつて在籍していた企業で感じた「優生思想」から心の底から自分の存在は社会に不要だと考えるようになっていたし、安楽死を依頼したALS患者と同じように生産性が低い自分が、どう安らかに死ねるか・方法はないか調べていた。

 

Twitterでは優生思想について非道徳的だと批判する声もあるようだが、私の実体験からすると、特段非道な思想ではなく、身近に溢れている思想だと思う。

 

そして、それに呑み込まれた障がい者・闘病中の人間が同じく優生思想に辿り着き、死に向き合うことになるだけのことだ。

 

これらの事象を眺めていた、脳出血患者の私から、世の中に問いたい。

 

「社会は病や障害と闘う生命が生きることを、本当に許しているのでしょうか?」