ひねくれ「努力論」
20時30分―病室中央にあるリハビリルームにあるベッドに寝っ転がり、歩行器の金具に反射して天井に映る光をぼんやりと眺めていました。
歩行リズムを一定に保つために聞いていた、メトロノームの音がイヤホンをした耳から濁流のように流れ落ちていく…
―「私は何のために歩いているんだ?」
creacreative-megumi.hatenablog.com
仕事が楽しいから、仕事を通して人と出会えることが楽しいから…それらを自分が踏ん張って手に入れたものだからーそしてそれらを取り戻すため。
言葉にするのは簡単だけれども、結実の様子が想像しにくい努力ほど苦しく、難しいのかもしれません。
幸田露伴の『努力論』序文にもあるように。
努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。(『努力論』幸田露伴)
学生時代に「序文だけ読んで」、その難解さに放り投げた『努力論』ーあれから数年経った今、先人の言葉を痛感することになろうとは思いもしませんでした。
つまり「間接の努力」が欠けやすい原因は「努力の結実への道のりの長さ」にあるのではないかーと永遠に続くような、メトロノームの音に溺れかけながら考えていたのでした。
いや、道のりの長さを分かっていたから今まで頑張ってこれたのでは?ー
creacreative-megumi.hatenablog.com
思えば私は「13,000歩」という【ただの数字】だけを【目標】と誤認していたのかもしれません。
また、最近の私は左手脚のリハビリと自主練は合計して5時間30分になるように予定を組んでいました―きっとこれも【ただの数字】。
「努力の結実への道のりの長さ」を「間接の努力」を成して乗り越えるためには、私の場合、数字目標に「模擬体験」を関連付ける必要があるのかもしれません。
例えばー文字起こし。1時間の音声を3時間以内に文字起こしできていたのなら、その模擬体験(実際に取材をして文字起こしをする)を時間内に行えるようにするー。
そもそも私の目に見えている標(しるし)は数字ではありませんでしたー仕事をしている過去の自分の視点を通した記憶。
この「狭い世界」にいると、どうしても目の前の数字を追いかけたくなる。でも、それは私が見ている世界ではありませんでしたー。
つまり、努力の方向が間違っていれば「間接の努力」に疑問を抱くようになるようです―「私は何のために歩いているんだ?」と。
幸田露伴は序文の後どのような文を続けたのでしょうか?思わず答え合わせをしてみたくなりました。