左脳は右脳の夢をみる

24歳で脳出血を起こしても、この世界で誰かを守るために生きる1人の軌跡。

「ありがとう」に想いを乗せて

私の隣のベッドには片山さんという60代くらいの女性がいる。この方が看護師さんにかけている「ありがとう」には重みがあって、「あゝこの人は心から感謝しているんだな」と思わせられる。そんな片山さんと今日、初めて(仕切り越しではあるが)お話しをしました。きっかけは昨晩のこと。「少し寒いなあ」と思って足元の毛布を取ろうとしていたのですが、脳出血の影響で左手脚が自由に動かせないために中々取ることができません。夜中だったし、「日常生活の動作が一番のリハビリになる」と三輪先生と同じく主治医の西尾先生が言っていたので、ナースコールをせずにバタバタと動かせる右手脚を使ってどうにかこうにか毛布を取ろうとしていました。凄く気力も体力も必要なので自然と「うーん!」と唸る私。そんな私の声を聞いた片山さんは一人で苦しんでいる私を心配して「大丈夫?看護師さんを呼ぼうか?」と声をかけて下さいました。疲れ切っていた私はその時返事ができずにナースコールを自分で押し、結局看護師さんに毛布をかけていただきました。夜が明けて、辺りが明るくなった8時頃に看護師さんが朝食を持ってきてくれたタイミングでもう起きているであろうと思ったので、仕切り越しに「昨晩はお声がけいただいてありがとうございました」と片山さんに話しかけてみました。すると、いつものあの物腰柔らかな声色で一言、「ありがとう」という言葉を返してくださいました。

脳出血を起こしてから何度も「ありがとう」という言葉を私も使っていますが、いつも「まだ私の感謝の気持ちは全部伝えきれていない!なんだか私が発する言葉は軽いなあ」というモヤモヤを抱えていました。でも、片山さんの「ありがとう」にはいつも重みがあります。何でだろう…と少し考えてみて出した答えなのですが、言葉に重みをもたせるためにら本当に苦しんだ経験とそこから自分ではない誰かに掬い上げられた経験があること、そしてかつての私のように「一人で生きていけるから!」とひねくれた心を持たずに人と繋がり、一緒に生きていく真っ直ぐな心をもっている必要があるのではないでしょうか。つまり、【空想から重みのある言葉は生まれない。】きっと「言葉の重み」の謎を解き明かすためには片山さんの歩んできた人生をお聞きするのが一番だと思うので、またゆっくりお話しができる時に聞いてみたいと思います。