左脳は右脳の夢をみる

24歳で脳出血を起こしても、この世界で誰かを守るために生きる1人の軌跡。

カカシは人の夢を見る

朝6:00ーまず「ひねくれた左手」を使いながらパジャマからスポーツウェアへ着替える。

朝6:30ーこれも左手を使いながらパジャマと布団を畳む。

着替えは仕方ないとしても後者は省略した方が苛立たずに気持ちの良い朝を迎えられそうですが、これもリハビリ。

先生に聞いた話ですが、進化論に倣って麻痺した方の手脚を意識して使わなければ状態は後退する一方だそうで、私は毎朝、未だ見ぬ「この先の朝」のために今日も左手を使っています。

今日はそんな私が気が付いた私的映画論について書きます。

 

 

日は入院して4日目の朝ーパジャマすら美しく畳むことができない自分を憂いた涙が真っ白なシーツに落ちました。視界はまるで光を描いたルノワールの『草上の昼食』ように揺らめいて、真っ白なシーツに落ちた涙の跡は草上に敷かれた白い布の上に落ちる木陰のよう。恐らく、この前日に高次脳機能検査で現実を受け止めた衝撃で涙を受け止めるはずの「ボウル」がまたもやひび割れていたのだと思います。

手首を反らすことが苦手になっている私の左手を涙が溢れ続ける目で見ると、だらりと横たわるそれはまるで「カカシの手」のよう。

ー「泣かないで…」

涙で歪んでゆく視界と慰める女性の声…私はこの風景、いや【ショット】を知っているー『潜水服は蝶の夢を見る』だ。左眼以外の身体が麻痺した主人公が初めての面会者である妻を見た時のあの主観(POV)ショットが私の眼前に広がる風景と一致した瞬間でした。

学生時代、ショット分析に関する本を片手に本作を観ていた私は「ああ、確かに登場人物の主観だね」とクリエイターの表現技法を学ぶ為にこの作品を観ているに過ぎませんでした。

しかし、主人公の体験を左手脚というほんの一部でありながら共有している今の私との再会により本作は『アメリ』同様、全く違う作品になっていました。

まず、POVショット云々以前に濁流の如く降りかかる医者や見舞客の言葉と膨大なモノローグに注意が向きました。

主人公は左眼以外が動かないのだから、もちろん言葉を喋ったり相手に伝えることは難しい。言葉は自分の内に溜まる一方である上に(彼の体験を一部共有している今の私だから分かることですが)、この現実を受け止める苦悩に代わる言葉は中々見出せません。そして、相手に伝えることが面倒になり、【ダイアローグ】ではなく【モノローグ】として溜めてしまうことで、「言葉のボウル」決壊の末に涙へ変わる。

「身体に閉じ込められた」自身の精神を現す映像として度々潜水服を着て深海に沈んでゆく主人公が映し出される本作。学生時代の私は身体麻痺という名の「潜水服」にばかり目を向けていましたが、今は違うー彼が沈んでいる海は他ならぬ彼の独白(モノローグ)とそれから生まれた涙によるものであり、一方的に振りかけられる濁流のような他人の言葉だったのか。

POVショットとはーもしかしたら、クリエイターによる一方的な表現技法ではないのかもしれない。こちら側に座している私たちも日々POVショットを撮り溜めていて、一つのシーンないしは一本の映画を作り上げているのだから、私たちの物語を語る表現技法でもある。

そして、私たちのそれと映画のそれが重なったときに安堵の混じった幸福が訪れる、といった具合なのかもしれない。

主人公で原作者のジャン=ドミニック・ボービーはこのような言葉を遺していますー「僕は自分を憐れむのをやめた。左眼以外にも麻痺していないものが2つ【想像力】と【記憶】だ」。

『ELLE』の編集長を務めた彼に倣ってもひねくれWeb編集者である私のわずかな【想像力】と大半が失敗の【記憶】では生き抜けないでしょう。

だから、カカシである私は人の夢を見て最後には人になり、想像力と記憶を更新し続けていくことにしよう。

 

追記:私の突発的な願いにも関わらず、仕事と家事の合間をぬってTSUTAYAでDVDレンタルをしてくれた母に感謝。