左脳は右脳の夢をみる

24歳で脳出血を起こしても、この世界で誰かを守るために生きる1人の軌跡。

カカシは人の夢を見る

朝6:00ーまず「ひねくれた左手」を使いながらパジャマからスポーツウェアへ着替える。

朝6:30ーこれも左手を使いながらパジャマと布団を畳む。

着替えは仕方ないとしても後者は省略した方が苛立たずに気持ちの良い朝を迎えられそうですが、これもリハビリ。

先生に聞いた話ですが、進化論に倣って麻痺した方の手脚を意識して使わなければ状態は後退する一方だそうで、私は毎朝、未だ見ぬ「この先の朝」のために今日も左手を使っています。

今日はそんな私が気が付いた私的映画論について書きます。

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鏡に映るは過去の自分

前回のブログを書いていて考えたことがあるー「先生と私のリハビリに対する想い云々の前に…クリエイターが仕事にかける熱量と私のそれは本当に釣り合っていたのか?」

 

creacreative-megumi.hatenablog.com

 

私の仕事はクリエイター向け情報サイト「CREATIVE VILLAGE」内【クリエイターインタビュー】の編集ライティングー映画監督やTVプロデューサー、クリエイティブディレクターに対するインタビューと記事の作成です。

今までの担当記事は映画監督・森義隆さんやCD・原野守弘さんなどで、錚々たるクリエイターの方々にお会いすることができました。

インタビューは事前準備が命なので、Web上の情報(過去インタビューなど)は勿論、クリエイターがつくられた作品は全てチェックし、SEO対策を組み込んだ質問案を作成した上でインタビューへ臨んでいました。

そして、多くのクリエイターの指南になるような記事を作りたい一心で仕事をしていました。

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ひねくれモノ、世代の壁を越える

転院2日目の朝。慶應義塾大学病院では自分の部屋で食事を摂っていましたが、ここでは団欒ルームで食事を摂ります。テーブルに座っている(というか入院患者の大半)が60代以上であるため、入院初日の昨日は「挨拶」と「自己紹介」だけして他の方々の会話を頷きながら聞いていました。

しかし、今朝は食事の前から団欒ルームへ行き、日記(仕事で使っていたスケジュール帳)を書くことに。

仕事用にデザインされたノートなので、その日のTODOリストが暦の下に用意されていますー①分からないことはその日の内に分かるまで聞く(特にリハビリ)②三人以上の方とお話しするーまず②を達成してしまおうと隣人のオオニシさん(70歳くらい)に話しかけようと口を開きかけたときー「あら、あなたも文章を書くのがお好きなの?」

先にオオニシさんからお声がけいただくことにー『はい、仕事が文章を書くことに関係していて…』

ー「じゃあ出版社にお勤めなの?」

ー『(Web編集者をどう説明すればいいんだ!?)出版社ではないんです。紙ではなくてインターネット上に載せる文章の編集をしていて…』

そもそも【Web編集者】はいつ頃からできた職種なのでしょうか?とにかくこの言葉は世代の壁を越えられそうになかったので当分の間使うことは無さそうです。

 

でも、私には世代の壁を越えられる知識が幸いなことに1分野だけありましたー「藝術」。

日芸の映画学科だから映画だけ観ていれば良いのかと言うと全くそのようなことはなく、複合藝術である映画を学ばなくてはいけない私は度々藝術関連の理論書・絵画の図版を読み、実際に展覧会へ足を運んでいました。

ー「私はね、文章を書くことも好きなんだけど、油絵を描いたり鑑賞したりするのも好きなのよ」

ー『油絵!お好きな画家はいますか?』

ー「私は印象派が好きでね、特にドガゴッホなんか。一度マドリードまで飛行機行って展覧会を観たんですよ」

ー『ドガは詳しくはないのですが、ゴッホは私も好きで【星月夜】が一番好きです!なぜ、印象派がお好きなんですか?』

ー「日常風景を描いているから。食事の様子とかね」

ー『あ、ルノワールの【舟遊びの昼食】なんかもそうですよね』

ー「そうね、ルノワールも素敵ね。後でよろしければ私が持っている展覧会の図版をお貸ししますよ…」

 

そして私は今、『印象派入門』(朝日新聞出版)を膝に広げてこの文章を書いています。

実は学生時代、映画を学び論じている意義を見失ってしまったことが度々ありました。学生時代から映画雑誌に批評文を寄稿していましたが、自己満足で終わっていることに気が付き、途方に暮れていたのでした。

しかし、「リハビリ病院」という意外なところで藝術関連の知識が役に立ち、驚いたと同時に喜びを感じています。

 

「俗世」との距離感

今日、誕生日の3月4日から1ヶ月強の間入院していた慶應義塾大学病院を退院します。

そしてそのまま実家から車で30分のところにあるリハビリ病院へ転院。

エモーショナルな文章はお休みして…旅立ちを前にした私が空想していることを書きたいと思います。

 

今朝、退院のため荷物をまとめていた私はあることに気が付きましたー「あれ?こんなに独り言多かったっけ…?」

リハビリの記録や社会復帰に向けた目標を記したノートを積み上げる時もー「えっと…これは一番下で…あ!どうしよう!どうしよう!薬の袋を落とした!取れるかな…いや、ケガをしたら元の木阿弥…」

この過剰な独り言の発端はとにかく自分の中に溜まっている幾多もの感情を吐き出す「対処療法」だったのですが、いつの間にか無意識に独り言が出るようになっていました。

私は病院の外の世界を「俗世」と呼んでいるのですが、私がこれからまた数ヶ月間お世話になるリハビリ病院を退院する頃には私と「俗世」との距離は離れ過ぎてしまっているかもしれません。

周防正行監督の『ファンシィダンス』(89)だって、寺院の息子で修行僧の主人公とモダンガールな恋人との間には拭えない価値観の違いが横たわっていた気が…

私が一緒に仕事をしている部署の先輩方は懐が広いけれども、私の独り言のせいで仕事が捗らないから席替えを希望されるかもしれない…何なら部署の島から外されて少し離れたフリースペースで仕事をすることになったり…

もう杖があれば一人で歩けるし、『ファンシィダンス』のコミカルな修行僧たちのように、周りの目を盗んで「俗世」へ下りる計画を立てた方が良いのかもしれません。

 

第2の故郷に想いを馳せて

人生の岐路に立ったな、と感じた時必ず聴く曲があるーショパンの『ピアノ協奏曲第1番ホ短調』。この曲はウィーンへ旅立つショパンが故郷ワルシャワを想って作曲したもので、狂ったようにブーニンの演奏動画を見ていた時期にこの曲と出会いました。

私は3歳から高校2年生まで断続的にピアノを習っていたものの、この通りひねくれモノなので高校時代は親の許可なくレッスンを直前に休んだりする困りモノでした。

 

だからピアノ(とビオラ)を演奏する方はからっきしなのですが、クラッシックを聴くことは好きで特に繊細で哀愁漂うショパンの音楽は私の感性に合っていたのか『ピアノ協奏曲第1番』に出会った後もショパンの楽曲を収録したCDを借りて度々聴くようになりました。

 

そして明日ー私は脳出血を起こして救急搬送され、11時間の大手術を経験した後に「左手脚までひねくれたWeb編集者」として第2の生を預かった故郷、慶應義塾大学病院から実家千葉県内にあるリハビリ病院へ転院します。

 

術後ICUにいた時の記憶からモニターの音を聞いただけで声を上げて泣く私がぼんやり見つめていたドコモタワー、そして母を傷つけた言葉に反論しようと「患者のご意見箱」に投書する言葉を一方的に書き連ねたあの時に私が睨んだドコモタワー、そして…故郷を旅立つ今の私がその荘厳さを賞でるように眺めるドコモタワー。

 

時間は連綿として続いているはずなのに、目の前の景色が変わっていることに気が付いた時ー私の脳に静謐なオーケストラの序奏を打ち破り、「過去に浸ってばかりいるな、出発の時だ」と言わんばかりの力強いピアノの音が響き渡りました。

 

次にこの景色を見る時は車椅子からではなく、自分の足で立って見てみたい。

 

次にこの場所へ戻って来る時は第3の故郷と人生を胸に。

ひねくれモノ、言葉を語る

私は脳出血を起こした3月3日から現在まで世間から少し遠い場所にいるので、空白の時間を埋めるべく、就寝前はニュース記事を少しずつ読んでいます。

その中でも眼を見張ったのが英物理学者・ホーキング博士の訃報。

 

恥ずかしながら私は『博士と彼女のセオリー』(https://www.google.co.jp/amp/eiga.com/amp/movie/81187/)を映画館で観て、初めて彼の存在を知りました。

当時は主演を務めたエディ・レッドメインの演技に感嘆の声を上げるばかりでしたが、左手脚が不自由になった今「車椅子の天才」と称された彼が遺した【言葉】に興味が湧き、調べてみることに。

パーキンソン病を発症し、身体を動かせないだけではなく、自分の声で話すこともできなかったホーキング博士。左手脚が不自由になってメソメソしていた私以上にメソメソしていた…ワケがありませんでした。

彼は私よりずっと死に近い場所にいた。だから、彼の言葉は生きることへの貪欲さと幸福への渇望に満ちていました。

今夜はそんな彼の言葉の中でも、左手脚のひねくれた私に最も響いたものを記して筆を置きたいと思います。

 

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