左脳は右脳の夢をみる

24歳で脳出血を起こしても、この世界で誰かを守るために生きる1人の軌跡。

未来を選べー

今回の題名はダニー・ボイル監督の『トレインスポッティング』(https://www.google.co.jp/amp/eiga.com/amp/movie/47360/)に因んで。

ドラッグ(ヘロイン)に溺れつつ面倒な仲間と縁が切れないで苦悩する青年の「人生の選択」をドラッグ中毒者の幻覚をはじめとしたサイケデリックな映像表現でイギーポップが歌う主題歌と同じくテンポ良く描いた『トレイン・スポッティング』(96)。

主人公が「面倒な仲間」と何となくつるんでいたから起こる事件と同じように私の脳出血に端を発する一連の出来事も奇形のある脳動脈という名の「面倒な仲間」と何となく共に生きてきたから受け止めざるを得なかっただけで、11時間に及ぶ脳神経外科手術や左手脚の麻痺などから体験したことは私がいくつもの選択肢から選んだシナリオではありません。つまりーちょっと特異な状況には置かれているけれどもこれはカミサマが(勝手に)お作りになったシナリオに過ぎない。

私の「意思」が入る余地はなかったわけです。

そしてこの度、ひねくれモノの私はカミサマから筆を取り上げることにしました。

まずは【リハビリ病院選び】。

(1)感覚麻痺がある分、分からないことを分かるまで聞き、納得しながらリハビリができる環境(2)退院後の日常生活や退院後に最も接する機会が増える家族との距離が近い環境

上記2点他を軸に3つの候補から1つの病院へ決めた上で父母と話し合い、最終決定させました。

次に【目標設定】。

「まずは退院後何を楽しみたいかを考えたら?仕事への復帰を目指してネガティブな方向に進まないか心配」というお言葉もいただいたのですが、やはり最終的な目標は【現職への復帰】。

感覚的な判断ですが、脳出血で入院して初めて泣いた時の私を信じているし、現に私は部署のメンバーと仕事がしたくて話したくて堪らないから。

これ以外の小さな目標(とかやりたいこと)は最終目標に付随して決めていきました。

 

例えばー【1人で洗顔ができる】などなど。

そもそも「退院後何を楽しみたいか」なんて閉鎖的な環境でひねくれた左手脚と共に1ヶ月以上いると机に向かわずとも次々と浮かびます。さらに今の状況で私が願う「楽しみ」は本当に小さなもので(例えば新宿御苑に杖をついて行きたいとか)恐らく達成までの道のりは人の力は必要だけど、そう遠くはない。

 

一方で、最終的な【未来】は選択から達成までの道のりはただでさえ遠い。では、左手脚がひねくれている私が進んだ時、どのくらいの時間が必要になるのでしょうか…?

 

だから、私は病院の窓から見える新宿の景色のずっと先をまずは「選ぶ」ことにしました。

ひねくれていて脆い私のことだから絶対に途中で何度も挫ける。

 

でも、この未来を生きたいんだ。本能ってヤツさ(‪ https://www.youtube.com/watch?v=jQvUBf5l7Vw&sns=tw‬)。

これってホントに「ありがとう」?

脳出血の影響で左手脚がひねくれてから一日に数え切れないほど「ありがとうございます」という言葉を使う様になりました。

「ありがとう」という言葉は「すみません」以上に汎用性の高い言葉だと私は思っているのですが、人に助けてもらわなくては日常生活が送れない今、少しこの言葉について考えたことがありますー(1)「ありがとう」ってただ自分の気持ちを伝えているだけだし、そもそも相手は感謝して欲しくて動いているわけじゃないのでは…?(2)この一言から読み取れる感情って汎用性が高い割には少ないのでは…ということです。

24年間の人生の中で一番素敵な「ありがとう」を届けてくれた片山さんについては下記の記事で書きましたが、

彼女の「ありがとう」に重みがある理由がわかったかもしれません。

▽「ありがとう」に想いをのせて
https://creacreative-megumi.hatenablog.com/entry/2018/03/28/085855

 

彼女は市井で多用され、ただの「自分本位な言葉」と化した「ありがとう」に相手が求めている【喜び】や【安堵】を声色として加えられていたから、重みのある「ありがとう」を届けられていたのではないでしょうか。

でも、今の私には到底無理な芸当です(片山さんにLINEのIDでも聞いておけばよかった)。

 

だから、私は場面と人によって相手が一番欲しいと思っているだろう言葉を予想して使うようになりました。

今や感情を表現するよりもただの自分本位な「言葉」と化している「ありがとう」という言葉を安易に使わずに、自分からお願いしたことなら「助かりました」やお気遣いいただいたことなら「お気遣いいただいて嬉しいです!」など…

 

「ありがとう」に代わる言葉は本の中にも映画の中にもありません。何故なら、自分の気持ちを表現する以前に相手の気持ちを知らなくてはいけないから。

その為には相手の性格や仕事への姿勢などの情報を集める必要があるーつまり、「ありがとう」に代わる言葉は相手とのコミュニケーションを繰り返すことによって自ずと生み出せるのかもしれません。

 

カッコーの巣を越えて

母や友人のおかげで私の読書欲は満たされているのだけれど、根本にある【映画狂(シネフィル)】魂は冷めやりません。
念願の『アメリ』を先日観て…心満たされたと同時に、気が付いたことが一つ。

人と関わることが苦手で空想の世界に閉じこもるアメリと変わり者のニノの「ラブストーリー」と位置付けていたはずの作品が人と関わることで心豊かに人間として成長していくアメリの「成功譚」に変化していたこと。なんと私は脳が生まれ変わった上に感受性とモノの見方まで生まれ変わっているようです。

そうなると…フランク・キャプラの『素晴らしき哉人生!』(https://www.google.co.jp/amp/eiga.com/amp/movie/16876/)を今の私はどう観るのでしょうか。
クリスマスツリーを囲んで歌う街の住人たちと主人公の姿ではなく、人生に失望して橋から身投げを決意した主人公に涙するかもしれない。
じゃあ、ルビッチの『ニノチカ』(https://www.google.co.jp/amp/eiga.com/amp/movie/47554/)は!?
冷徹な美女ニノチカが劇中初めて笑ったあのシーンでお腹を抱えながら笑い泣きをするのではなく、ロシアに帰国した彼女が同士とディナーを食べているシーンに仲間の有難さを感じ、心打たれるかもしれない。
じゃあ、成瀬巳喜男の『稲妻』(https://www.google.co.jp/amp/eiga.com/amp/movie/34812/)は!?
デコちゃん(高峰秀子)がぶどうの種を縁側から吐き出す姿に可愛らしさを感じて微笑むのではなく、家族に振り回されて涙を流すデコちゃんにつられて泣いてしまうかもしれない…
ジャック・タチなんかも楽しげで今の私には良いかもしれない!あの意味の分からないゴダールの映画も今なら少し感じることがあるかもしれない!

ーあゝ映画が観たい!


私は日芸映画学科時代、少ない数字ではありますが月に10本映画を観ることを目標にしていました。しかし、社会人1年目で心の病に罹ってからは月に1本も観られない日々が続きました。
映画好きである私を気遣って先輩が「オオサワ、最近映画観てるの?」と声をかけて下さっても「いえ…最近観られてなくて…」と力なく答えるだけしかできませんでした。
その反動なのか、変なハナシですが脳出血で左手脚がひねくれた代わりに心が真っ直ぐになって心療内科という名の「カッコーの巣」を越えたからか、とにかく映画が観たくて仕方がありません。

ー「オオサワ、最近面白い映画観た?」

ー「クマザキさん!それが観ちゃったんです!」

なんて会話ができる日が早く来ますように。

足元より遠くへ

私が歩行練習をする時に留意する点は大きく分けて以下の3つあります。

1)左右対称の状態で立つ2)内股にならない3)杖を持つ右手ではなく左脚に体重をかける

 

健常者なら意識せずとも出来ることですが、運動麻痺だけではなく、感覚麻痺のある私は左脚に力が入っているかも分かりづらい状態であるため、視覚で情報を補う必要があります。

しかし、そうするとー「オオサワさん!足元だけじゃなくて前見て前!」と言われることに。

この言葉に因んでではありませんが、今日のリハビリを終えた私はある日課に臨んでいましたー「リハビリノート」に今日のメニューと感想、先生からのアドバイスをまとめる、という日課

病院の売店で買ったB6のノートにお得意の細かい字でびっしりと書き記します。

ー「(あ、私は今足元しか見ていない。その先の最終目標と中間目標は何となく考えているだけで、細かく書き記してない…これでは何処に向かって歩いているのか分からなくなる。)」

今度はB5ノートを取り出して【最終目標】と【中間目標】を書き始めました。

【最終目標】はもちろん【今の仕事に戻る】

ーいやいや、ちょっと待って。絶望の前に希望を抱こうなんて安直すぎる。私はまだ足元も見えていない!日常生活や仕事に今戻ったとして出来ること・出来ないことを明確にしよう。

手は軽く握ったり開いたりができる程度、脚は掴まり立ちができる程度の今の私。

当たり前のことですが、「身支度」も「名刺交換」も出来ません。

日常生活の動作と仕事内容をリストアップしましたが、9割以上「出来ないこと」でした。

この時私が思ったことー「小さな絶望を積み重ねて足元から少しずつ遠くを見ることにしよう」。

 

ー「後ろを見てばかりいないで前に進まないと!」

よく聞く言葉ですが、つい最近過去と向き合い、大決闘した今の私がこの言葉を編集するとしたらー「過去・現在と納得するまで向き合え!」でしょうか。

 

▽自責は自分を、そして誰かを守るために

https://creacreative-megumi.hatenablog.com/entry/2018/04/09/200614

▽ひねくれモノの恩返し

https://creacreative-megumi.hatenablog.com/entry/2018/04/10/200349

 

足元からもっともっと遠くを見るために。

私はこれからも過去と現在と向き合って沢山の「小さな絶望」を「大きな希望」に変えていきたいと思います。

キャスト・アウェイ

私が「web編集者」という今の仕事に就けたのはトム・ハンクス主演の『castaway』(http://eiga.com/movie/1326/review/)で主人公が大荒れの大海に浮かぶ「友人」のウィルソンを捕まえることよりも恐らく険しい道のりだったし、幸運なことでした。

 

▽私は生まれる前からひねくれモノだった!?

https://creacreative-megumi.hatenablog.com/entry/2018/03/29/121050

つまり、現在までの話をまとめると…転職エージェントとして入社したものの人と関わることが怖い上にひねくれモノだったから心の病に罹り、一度目の休職。一度目の復職で先輩方含め、多くの方の助けで大好きな現在の仕事に就くもまだ心の病が治りきっておらず、二度目の休職。二度目の復職を経て仕事が楽しくなってきた矢先、脳出血で倒れて三度目の休職中…

 

そして今、私は再び遠ざかってゆく「ウィルソン」を目指して麻痺の残る左手脚を最大限に使って大海を泳ぐために、次に転院するリハビリ病院を両親共に選んでいます。

今の会社、そして倒れる前の仕事に戻るために。

「いやいや、そんなに意気込まなくても…他の会社にすれば?それかアルバイトとか…」と思われた皆さんには時間のある時に是非『castaway』をご覧いただきたいー無人島で強いられる孤独かつ厳しい4年間の生活。

その時間を共にしたのがただ自分の血で顔を書いただけのバレーボール「ウィルソン」だったとしても、彼が大海に流されてゆくのを黙って見ているわけにはいきません。主人公は荒波に負けじと手足を動かしながら口も耳もない友人に向かって叫びますー「ウィルソーン!」

私にとって今の会社と仲間と仕事は「ウィルソン」さながら、無人島で出会ったたった一つの心の拠り所です。

そして今、脳出血で倒れた先にたどり着いた新たな「無人島」での生活の心の拠り所でもあります。

私の左手脚の最終的な回復イメージはリハビリの先生にも、私にも、つまり誰にも分かりません。だからこそ、何処を最終目標にして良いのか難しいのですが(高過ぎる目標でも低過ぎる目標でも心をひねくれさせると考えているから)、でもここは目の前に浮かぶ「ウィルソン」目掛けて精一杯の努力をしたいと思います。

心がひねくれない程度に、ですが。

ひねくれモノの恩返し

下記の記事に以前書きましたが(誤診を含め)私の母を傷付けることになった医師から今日直接の謝罪がありました。

▽真っ直ぐな心でしか癒せない傷
https://creacreative-megumi.hatenablog.com/entry/2018/04/06/221559

「え!その医者の名前も分からないんじゃなかったの!?」と驚いた皆さん。

実は私、この話を担当の看護師さんに伝えた上で、4月7日(土)に「患者の意見箱」へ上記の記事で書いた事実をそのまま投書し、末尾に【私の手脚を元に戻せとは言わないからその時対応した医師を見つけ出して、母に謝罪をさせて欲しい】と書いたのでした(ボールペンで筆圧を最大限にかけ、CTの件含め、医師からかけられた言葉には全て下線を引きました)。

 

すると、本日その医師本人と上司が母と私の元に謝罪をしに来たのです。

 

その医師の顔をよく見ていなかったので残っている記憶はごく最小限ですが、

私に向かって「お母様には先ほどお詫びをさせていただきましたが本当にすみませんでした」といわれたことだけは覚えています。

 

誤診の責任含め、言い返したいことは山ほどありましたが、私は母の心を傷付けた消せない事実に悔し涙を流しながら一言だけその医師に伝えましたー「私は母から聞いた話を通して感じたことを直接ではなく、お手紙で伝えたので冷たい印象を与えてしまったかもしれません。でも…私はとにかく母に謝って欲しかったんです…」

 

話し合う時間がほとんどない状況で私は医師の気持ちを理解できていないし、医師は私の気持ちを理解できていないーそんな状況でお互いの心に響く言葉が出るはずはありません。

だから私は涙を流している私の姿を見てもらうことでその医師に私の母の心の傷と同じだけの痛みを感じて欲しい、と思いました。

 

その医師と上司が去った後も私は「すみませんでした」という一言で済まされてしまったような悔しさに涙が止まりませんでした。

 

そして、そんな私を見た母が「お母さんは大丈夫だから気にしなくていいんだよ!」という言葉をかけてくれました。

 

しかし、ひねくれモノの私は「そんなはずない!お母さんは傷付けられたし、今も傷付けられているはずだ!」と母の言葉を素直に受け止めず、彼女の気持ちを想像して余計に涙が止まりません。

 

母が差し出してくれたハンカチを手に、しばらくして涙が落ち着いた頃、私は母にポツリと聞きましたー「お母さんはスッキリした?」

ー『うん、めぐみの所へ先生が来る前にしっかり言いたいことは本人にも上司にも言えたからスッキリしたよ』

今度はぽつりと安堵の涙が溢れてきました。

11時間の手術を成功させてくれた主治医のミワ先生と共に私の命の恩人である母(https://creacreative-megumi.hatenablog.com/entry/2018/03/25/200818)。

私の命を生み出し、守ってくれたのが母なら、

【母の心に灯る明かりを生み出し、その灯火を守るのは私の役目】だと今日のできごとを通して改めて心に決めました。

その役目をこれからも忘れずに生きていきたいと思います。

自責は自分を、そして誰かを守るために

 

私はかかりつけの四ッ谷にある心療内科(メンタルクリニック)のお手洗いで動けなくなり、救急車で慶応義塾大学病院へ運ばれました。

 

先日、母が心療内科の医師と話した内容を教えてくれたのですが納得のいかない点が一つあったので今日リハビリの後に御礼かねがね医師に電話をしました。

 

ー「先生、まずは色々と手配していただきありがとうございました」

ー『今の状態はどうなの?』

ー「脳出血の影響で左手脚に麻痺があって、脚は自分一人で立つことも難しい状態です。手は軽く握ったり開いたりができるくらいです」

ー『いやあ、私も運ばれる前に手脚の麻痺含め色々調べたしそっちの先生も最初分からなかったみたいよ

ー「先生、その件なのですが…私はお手洗いで倒れた時から左脚は麻痺が出ていました。先生とスタッフの女性がお手洗いの扉を開けようとした時、私の足、引っかかってましたよね?スタッフの方が何度も呼びかけても私は脚を動かせずにいましたよね?」

ー「母から聞いたのですが、先生は貧血だと思われていたそうですね。そして一時間、病室に脳出血を起こしている私を寝かせて下さったんですよね。

でも先生は問診をきちんとせずに動けない、と言った私の言葉だけで判断されたのではないですか?」

ー「確かに母の懇願でCTを撮ってわかったので先生には【難しかった】かもしれませんね…」

▽「お母さんの子どもで本当に良かった

https://creacreative-megumi.hatenablog.com/entry/2018/03/25/200818

 

最後のちょっとした棘のある言葉は彼に届いたかすら分かりません。

何だか心がひねくれていた昔の私を見ている気分でした。

ミスをした時、肩を落として心の中では自分を卑下するけれど、肝心の事実から目を背けて自責より他責。そして改善策を考えずに気分だけが落ち込んでゆく。

 

そして恐らく、この先生はこれから先に同じく患者がお手洗いで倒れても同じようなミスを繰り返すのだろうな…と思いました。

 

そして、最後にその医師が私にかけた言葉はー『まぁ人生そんなもんだ』

 

心の病での休職期間中、助けていただいたことや救急車の手配等、心療内科の先生にも勿論感謝をしていましたが、この言葉を聞いた私は目の前に聳え立つドコモタワーを睨みつけるしかありませんでした。

 

彼にたった一人で臨む、11時間の脳外科手術を前に恐怖の涙を流した私の苦しみは理解できていない。

手術室に運ばれる時、母がかけてくれた「迷ったらお母さんの所に真っ直ぐ帰ってくるんだよ!!」という言葉に心が救われ、安堵と心細さが混じった涙を流した私の戸惑いも理解できていない。

…はずなのに、彼は私の人生を理解したかのように「そんなもん」と言い放ちました。

 

自責は自分を傷付けるためにあるものではありません。

自分を傷付けるだけではその痛みによって現実から目を背けているだけ。

これは社会人一年目の私がよくやっていたことだから痛いほどその愚かさが分かります。

でも、自責すらできていない人間はどうなるのでしょうか…間違いなく同じ過ちを繰り返しますよね。だって、過ちを認識すらできていないのだから。

そして、【自責】とはー自分を守り、そして同じ過ちを繰り返さないことで誰かを守るためにあるのではないでしょうか。

私が元の仕事に戻った暁には「自分を、そして誰かを守るための自責」ができるWeb編集ライターを目指したいと思います。

 

そのためには自分のミスから目を背けずに認め、迷惑をかけた方へ事実の報告と謝罪をする。

そして、同じミスをして誰かに迷惑をかけたり傷付けたりしないために改善案を提示する…こんな感じでしょうか。

でも言葉で書くのは易しいけれど、実践するとなると難しいですよね。特に「自分のミスから目を背けずに認める」。

 

ひねくれモノの私の人生はまだまだ前途多難かもしれません…(色々な人に頼りながら!)もちろん乗り切りますが!